研修医の記憶

病院での素敵な出来事を研修医視点で綴ります

祖父が亡くなった時の話

私の母方の祖父は、私が17歳の時に亡くなりました。死因は肝不全、なんでも私が小学生の時に一度余命1週間と言われていたそうで、長患い中の長患い。それ故に辛い思い出も多く、今でも思い出すと気分が暗くなる最期でした。

 

肝不全に至った原因はアルコール、そしてC型肝炎。どうやらC型肝炎は風俗店で貰ってきてしまったものだそうで、何にせよ病気の原因が自業自得なのが、不幸の始まりでした。私には生まれた時から激甘だった祖父ですが、昔は家庭内暴力もひどかったそうで……。その上に横暴な性格が災いし、母や叔母には「早く死ねばいいのに」と陰で言われていました。

子供で背景事情の理解できない私は、正義感から「そんな不謹慎な事言っちゃいけない」と激怒したわけですが、これが母の逆鱗に触れて怒鳴り散らされた事もあります。思い返せば返すほど、祖父の死については嫌な思い出しか出てこないですね。

 

肝不全となった場合、毒素を解毒できずに肝性脳症を起こし、意識障害が起こります。おそらくその症状だったのでしょう、激昂する、失禁する、などなど介護負担を増やすような事件を毎日起こしていました。奇跡の生命力のおかげで、肝性脳症を起こしながら約2年は生きていた祖父ですが、その間に祖母や三人の娘は疲弊。おかしくなった祖母も、親戚に娘が介護を手伝わないと嘘八百を言いふらし、最後の一ヶ月はまさしく地獄絵図。いよいよ多臓器不全で無理だと言われた死の前日、私は母に連れられてお見舞いに行ったのですが、死ぬのが怖かったのか、目が乾いても祖父は頑なに目を閉じようとはしませんでした。あの光景も焼き付いて離れません。

私が帰った後、主治医の先生は、「二度と目が覚めないかも知れないけれど、苦しくないように眠らせますか」と家族に持ちかけたそうです。そこで真っ先に、苦しくないようにお願いします、と答えたのは母。他二人の姉妹と祖母は泣いて何も言えなかったと。その時母は、祖父が苦しくないようにというより、介護が早く終わって欲しいという気持ちが大きかったようで、決して間違った選択ではなかったにもかかわらず、「自分が殺した」という思いを抱えて生きていくことになってしまいました。

 

また今度書きますが、鎮静が遅れたせいで苦しませてしまった患者さんが一人います。祖父と同じく、目を見開いて、そのまま痙攣しながら亡くなりました。

「患者さんが亡くなってお見送りしてきたんよ、じいと同じ肝不全でね、もしママが寝かせてくれって言わんかったら、じいはたぶん、すごく痛い思いしながら死んだよ。」

働き始めた私がそう電話してようやく、母は10年の呪縛から解き放たれたそうです。

 

2年目の研修医にしては、私は夢がなく、先行き暗そうな患者さんには、治療をやめませんかと上級医に持ちかけることがあります。

何の経験もない私ですが、おそらく多くの先生方は経験していない、身内の救いようのない死に様を見て、その後の家族の荒れ方も見てきました。あの悲劇を、どの家族にも起こさせない、それが私の一番といっても過言ではない目標なのです。

ベテラン先生の悩み

とある先生が、救急外来の合間に見せてくれた子供のCT。小さな頭に、絡み合うように何本もドレナージチューブが入っていました。

「この子な、歩けんのよ。」

自由奔放、一匹狼、そんな言葉がぴったりな先生で、怒ると怖いし笑う時は大声で笑う。その先生の滅多に聞かない静かな口調に、私はなんと答えたものか困りました。

「なんで痛い思いをさせたんやろ。」

「お母さんには、その子の代わりはいないからじゃないでしょうか。」

「俺が薄情なんかもしれんけど、俺にはわからん。」

もう一人の子は、さらに小さい頭。その中で脳を押しつぶすような水頭症

「この子も手術しても、たぶん歩けん。でも俺はこのまま死ぬのを見守れとも言えん、手術も強くは勧められん。」

外科医になったら、手術適応は考えろよ、と先生が呟くように言いました。

「子供だけじゃない、大人でも。俺は、術後の2年生存率が上がった下がったで評価する今の考え方は理解ができん。」

そこで救急患者さんの情報が入り、話はそこで終わりました。

 

私が学生の時、その先生が烈火の如く怒りながら、手術室に入って来たことがありました。いつもの怒っている時は違う、地を這うような声で先生が言うには、誰か他の医者に、治らないのがわかっていて何でもかんでも切って、と言われたとのことでした。

表情の消えた顔で手術室のモニターを睨みつける先生の気迫に、当時はただ怖くて距離を置いてしまっていたのですが、きっとあの時、先生の脳裏にはそれまで手術してきた、でも救いきれなかった患者さん達が浮かんでいたのだと思います。感情表現には不器用ながらも、本当に優しく愛情深い先生のこと、この先も患者さんの為に人知れず苦しみながら生きていくのでしょう。

 

お見送りの記憶 1

私が最初に見送った方は、研修開始時には既にあと1週間の命と言われていた心不全のおじいさんでした。

それまで私は目の前で人が死ぬのを見た事がなく、その人に死が迫っているという事実が理解できませんでした。

止まらない消化管出血、貧血も進行し、そろそろ鎮静しようかと上の先生たちが話す中、いつものように病室へ行くと、おじいさんは言いました。

「今私の前には山があって、これを乗り越えたら、また元気になれる気がするのに、どうにもその力が出せない。山を越えたいのに。」

山を越えるためにも、今は無理せず体を休めてくださいと、ちょっと泣きたくなるのを我慢して答えましたが、おじいさんには何となく無理なのはわかっていたでしょう。

昼頃、いよいよ呼吸が苦しくなり、ご家族とも話し合って鎮静が始まりました。業務の合間におじいさんの部屋へ行くと、娘さんが穏やかな表情で見守っていました。

「明日が父の誕生日なんです。明日まで頑張ってくれたら嬉しいなあ。」

また泣きたくなりましたが、亡くなっていないのに泣けないと思い、その時はなんとか耐えて部屋を後にしました。

夜、何とか午前0時は越えて、おじいさんは息を引き取りました。ずっと付き添っていた奥様は笑って、よかった誕生日を迎えられて、と、ペースメーカーの刺激にも心臓が反応できなくなるまでの間、いつもと変わらない様子で見守られていました。

 

長患いだったそうで、悲しいながらも覚悟をしていらっしゃったご家族に対し、全く感情の整理がつかなかったのが研修が始まったばかりの研修医の私です。

「最期に奥さんがそばにおってくれて、俺なら大満足の死に方やなあ。」

と指導医が慰めてくれたのをきっかけに涙が止まらなくなり、

「死亡診断書はその人にとって最後の大事な公文書やから、綺麗に書いてあげてな」

と言われたにもかかわらず、ボロボロ泣きながら書いたせいで字がガタガタ。挙句、

「先生、私らが泣いてないのにそんなに泣いたらいかん」

と娘さんにまで笑われ、こんなに泣いたのは祖父の葬式以来だというほど泣きました。

 

思い返せば、家族が介護疲れを起こすこともなく、最大限の付き添いをできている中で旅立たれ、いい最期だったと思います。

少しでも遺される家族の悲しみが和らぐよう、そろそろ旅立ってしまいそうな患者さんがいる時には、いつもあのおじいさんを思い出し、最善のお手伝いができるように心がけています。

脳外科前教授の最終講義

脳外科前教授は主に脳腫瘍の研究をされていた先生で、最終講義はその先生の研究を数十年にわたって振り返る、人と脳腫瘍の戦いの歴史ともいえるものでした。

現在も、脳腫瘍はほぼ完治の望めないがんの一つで、先生は、いわば戦の真っ最中に指揮官の座を降りる形での退官となりました。

講義後最後の質問として、准教授の先生は非常に難しい質問をされました。

「先生は、人類があと何年で脳腫瘍を克服できるとお考えでしょうか?」

そうだなあ、といつものように穏やかに言って少し黙った後、教授は顔を歪めました。

「あと15年、あれば、きっと。」

涙声で教授が仰ったあの日から既に2年。

あと13年、私が中堅の脳外科医になる頃には、脳腫瘍は他のがんと同じように、治せる病気になっているでしょうか。

その戦いに、私も少しは貢献できているのでしょうか。

 

学生の時の、先輩方の名言集

「働いて働いて、でも何人も救えずに見送って、ああもう死な人は見たくないと思って研究を始めるんだよ。」

(循環器内科前教授)

「僕はある時、何で病気になるまでほっとくんだろうと思った。僕たち医者の方がだよ。それで予防医学というものを考えた。」

(公衆衛生学前教授)

「しんどい、寝れない、でも、患者さんが元気に退院してくれたら、それだけで頑張れるんだよ。」

(脳外科前教授)

「外科医のいない世界こそ幸せだから、俺は外科に行くけど内科治療の研究をする、それで外科を潰すのが俺の夢。」

(2年上のG先輩)

初心を忘れそうだから

研修医として働き始めて一年が経って、充実はしているけれども、忙しかったりしんどかったりで、初心を忘れそうになることがあります。

 

『一人でも悲しむ人を少なくしたい』

 

これが医学部を受験した理由、私の初心です。

私の祖父は肝臓癌で亡くなりました。亡くなる前日、死期を悟ったのか、祖父は絶対に目を閉じようとしませんでした。その表情は、高校生だった私に深い傷を遺していきました。

おかげで病院に恐怖心を抱いた私は、その後2年ほど回り道をしてしまうのですが、再度医師を目指した時には、祖父のような人を二度と見てたまるかという強い思いを抱いていました。

 

今でも思いは変わりません。ただ、祖父のように壮絶な最期を迎える方は少なくない事を知り、眠るように亡くなっても家族にはやはり傷を残す事を知り、私の初心がいかに無謀だったかに気が付きました。

どれだけ頑張って治療をして、どれだけ考えても、結局最後に人は死に、同じだけの数の人が悲しむのです。何をしても結果は変わらないんじゃないかと、投げやりな考えがちらつくことが増えてきました。

 

なので、このブログに、初心を思い出させてくれる素敵な出来事を書いていこうと思います。

いつか本当に私が荒れてしまった日に、素敵な記憶を思い出して踏みとどまれるように。