お見送りの記憶 1
私が最初に見送った方は、研修開始時には既にあと1週間の命と言われていた心不全のおじいさんでした。
それまで私は目の前で人が死ぬのを見た事がなく、その人に死が迫っているという事実が理解できませんでした。
止まらない消化管出血、貧血も進行し、そろそろ鎮静しようかと上の先生たちが話す中、いつものように病室へ行くと、おじいさんは言いました。
「今私の前には山があって、これを乗り越えたら、また元気になれる気がするのに、どうにもその力が出せない。山を越えたいのに。」
山を越えるためにも、今は無理せず体を休めてくださいと、ちょっと泣きたくなるのを我慢して答えましたが、おじいさんには何となく無理なのはわかっていたでしょう。
昼頃、いよいよ呼吸が苦しくなり、ご家族とも話し合って鎮静が始まりました。業務の合間におじいさんの部屋へ行くと、娘さんが穏やかな表情で見守っていました。
「明日が父の誕生日なんです。明日まで頑張ってくれたら嬉しいなあ。」
また泣きたくなりましたが、亡くなっていないのに泣けないと思い、その時はなんとか耐えて部屋を後にしました。
夜、何とか午前0時は越えて、おじいさんは息を引き取りました。ずっと付き添っていた奥様は笑って、よかった誕生日を迎えられて、と、ペースメーカーの刺激にも心臓が反応できなくなるまでの間、いつもと変わらない様子で見守られていました。
長患いだったそうで、悲しいながらも覚悟をしていらっしゃったご家族に対し、全く感情の整理がつかなかったのが研修が始まったばかりの研修医の私です。
「最期に奥さんがそばにおってくれて、俺なら大満足の死に方やなあ。」
と指導医が慰めてくれたのをきっかけに涙が止まらなくなり、
「死亡診断書はその人にとって最後の大事な公文書やから、綺麗に書いてあげてな」
と言われたにもかかわらず、ボロボロ泣きながら書いたせいで字がガタガタ。挙句、
「先生、私らが泣いてないのにそんなに泣いたらいかん」
と娘さんにまで笑われ、こんなに泣いたのは祖父の葬式以来だというほど泣きました。
思い返せば、家族が介護疲れを起こすこともなく、最大限の付き添いをできている中で旅立たれ、いい最期だったと思います。
少しでも遺される家族の悲しみが和らぐよう、そろそろ旅立ってしまいそうな患者さんがいる時には、いつもあのおじいさんを思い出し、最善のお手伝いができるように心がけています。